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</div>
<div id="page1" class="hide">  超現実といふ言葉はその発生の地盤そのものが現実である以上、よりよき現実を構成するための一方法としてのみ意義を有するもので、決して字義通りの解釈そのまゝでは無意味であると思ふ。<br />
 芸術の本質は如何なる芸術と<ruby ><rb >雖</rb ><rp >〔</rp ><rt >いえど</rt ><rp >〕</rp ></ruby >も本来は超現実である可きである。<br />
<br />
 芸術の発生その存在理由―芸術の功利性―は現実の不完全を補ひ、現実をより完全なる未来へ方向づける役割にある。<br />
<br />
 故に現実の中に於ての活動でありながら現実以上のものへの憧憬であり現実を突き抜けて進展する活動である。 即ち超現実的芸術であるわけである。<br />
<br />
 故に行動としては現実と断然無縁であるといふことは不可能である。<br />
 然しこゝでいふ芸術の功利性は芸術の一般原則としてのそれであり<ruby ><rb >所謂</rb ><rp >〔</rp ><rt >いわゆる</rt ><rp >〕</rp ></ruby >功利的芸術といふものとは区別されねばならない。 <br />
 芸術としての一般規範に於ては、功利主義芸術もそれと対立する至上主義芸術(純粋芸術)も、等しくその存在理由を現実への役割に持つている筈である。<br />
 <ruby ><rb >然</rb ><rp >〔</rp ><rt >しか</rt ><rp >〕</rp ></ruby >し功利主義芸術(現実的有目的芸術)はその芸術の中に功利の目的を持つているに反して至上主義芸術(純粋芸術)は純粋美を持つ事をその目的としている。<br />
 超現実主義は勿論純粋芸術である。 </div>
<div id="page2" class="hide">
 芸術は現実の中に終始するものではない。  現実の不満が芸術(超現実)を産み現実が進展して芸術の境地に到達すればも早その芸術は芸術としての存在価値を持たなくなり其処に両者の融合<ruby ><rb >渾一</rb ><rp >〔</rp ><rt >こんいつ</rt ><rp >〕</rp ></ruby >したる現実が有る。現実―芸術―現実といふやうに弁証法的に無限に新展して行くものである。<br />
<br />
 超現実主義芸術は現実を抱容し超越する機能を持つと同時に、それ自身として永久に終結することのないものである。<br />
 現実は進む。一時代に優れた芸術も次の時代では平凡な現実となりそうして又新しい次の時代の芸術が生まれる。<br />
 時代は常に形成されてあると同時に形成されつゝあるものである。何時の時代も次の時代への過程である。<br />
 故に一つの時代に成されたる一つの芸術は次の時代に於て消滅する運命を持つ。<br />
 即ち芸術はそれ自身の消滅への行進である。<br />
<br />
 永久に達せられない目的を持つて芸術は進む。<br />
 「ダダ」に於て芸術的進展性がないといふ現実主義最後の宣告は超現実主義に於て見事に<ruby ><rb >駆逐</rb ><rp >〔</rp ><rt >くちく</rt ><rp >〕</rp ></ruby >された。<br />
 「ダダは精神の状態である」「ダダは何物にも傾倒しない。恋愛にも、仕事にも」「ダダは芸術上の自由思想である」と言つている通りダダは一つの存在の状態であつて何物の希求も持たなかつた。<br />
 然し超現実主義は純粋美の探究と獲得のための意識的合目的々手段である。故に超現実主義は無限の発展性を持つものである。そこに超現実主義が持つ時代的表象としての存在の意義がある。<br />
<br />
 純粋美とは固より先験的価値形式であるから我々の経験的現実には存在しないものである。  その未知の世界への探求―超現実主義はその方法としてのメカニズムである。<br />
<br />
 過去に<ruby ><rb >於</rb ><rp >〔</rp ><rt >おけ</rt ><rp >〕</rp ></ruby >る構成派、純粋派等は絵画として、視覚的造型的に充分教養された上級のものであつたがそれ等は重心を現実の経験的世界に置いた為めに芸術としての論理に弱く発展性を持たなかつた。<br />
</div>
<div id="page3" class="hide">
 経験世界はそのまゝとしては芸術に縁なきものである。<br />
 経験の世界は実感の世界であり芸術とは<ruby ><rb >異</rb ><rp >〔</rp ><rt >ことな</rt ><rp >〕</rp ></ruby >るものである。<br />
 作品の中にある対象が実感の世界のそれであつても、それは<ruby ><rb >寧</rb ><rp >〔</rp ><rt >むし</rt ><rp >〕</rp ></ruby >ろその実感の世界を消滅すべき素材としての形象に過ぎない。実感の世界を消滅せしめない限り対象は邪魔であり作品は混乱する。<br />
 現実を通して現実から自由になる事を願ふ―この完全なる形態とは形態自身が現実的意義を消滅したる時である。<br />
 芸術の作品とは故に消滅の一歩手前にあるものである。<br />
<br />
 勿論其所には自我等は存在し得ない。自我は現実の世界である。<br />
 故に自我の情熱―現実の情熱は芸術には存在しない。芸術への情熱は現実の情熱の消滅したる所に生ずる。<br />
<br />
 芸術は<ruby ><rb >又</rb ><rp >〔</rp ><rt >また</rt ><rp >〕</rp ></ruby >個人のものではあるが芸術の中の個人は個人では無くなる。主観的存在より客観的存在への進展であり、個人我より社会我への進展である。<br />
 それは又芸術の自己<ruby ><rb >解脱</rb ><rp >〔</rp ><rt >げだつ</rt ><rp >〕</rp ></ruby >であり其所から厳密なる意味に於て作品としての主観的自立価値と客観的評価々値とが生じて来る。<br />
<br />
 個人我より社会我への進展といふことは個人としての自己消滅である。彼が完全に彼自身となつた時彼は彼で無くなる。否、彼が彼で無くなつた時彼は完全に自己完成を遂げたのである。<br />
 個人我の消滅といふことを現実的に形式的に考へた場合には当然自殺といふことになるが自殺といふ形式は非現実であつて超現実ではない。<br />
</div>
<div id="page4" class="hide">
 <ruby ><rb >此処</rb ><rp >〔</rp ><rt >ここ</rt ><rp >〕</rp ></ruby >で非現実と超現実とを区別しなければならない。<br />
 非現実とは現実を対象としたる対立の世界であり、超現実とは現実を徹したるそれ自身の自律の世界である。<br />
 <ruby ><rb >抑</rb ><rp >〔</rp ><rt >そもそ</rt ><rp >〕</rp ></ruby >も芸術より見たる現実とは何であるか。<br />
 芸術より見たる現実とは経験世界の埃つぽい概念の集積以外の何物でもない。夢の如き本体のない<ruby ><rb >仮象</rb ><rp >〔</rp ><rt >かしょう</rt ><rp >〕</rp ></ruby >である。<br />
 芸術に於ける現実は何時も仮象としての存在であつて対象としての現実ではない。<br />
 即ち超現実への機械の構成要素の一素材としての現実である。<br />
 現実的芸術といふものが<ruby ><rb >若</rb ><rp >〔</rp ><rt >も</rt ><rp >〕</rp ></ruby >し有り得ると仮定してもそれは何等現実的役割を持つ事の出来ないものであり、超現実的なるものこそ真に現実的なるものである。<br />
<br />
 芸術の価値は現実的価値形式―思想、感情、感覚等―を超克し切断したる所にある。<br />
 即ち現実的価値の無くなる時に芸術的価値は生ずる。<br />
 故に作品の中に描かれたる対象をそのまゝ作者の思想、感情、感覚と解釈することは誤りである。<br />
<br />
(対象としての現実の具象を切断したるのみでは<ruby ><rb >唯</rb ><rp >〔</rp ><rt >ただ</rt ><rp >〕</rp ></ruby >非現実と云ふ<ruby ><rb >可</rb ><rp >〔</rp ><rt >べ</rt ><rp >〕</rp ></ruby >きでそれは捉へ所のない夢想に等しきものであり従つて非芸術である。)<br />
<br />
 消滅への機構としての超現実主義は意識的目的々であるがゆえに形式に<ruby ><rb >於</rb ><rp >〔</rp ><rt >おい</rt ><rp >〕</rp ></ruby >て例へ相似のものがあつたとしてもイマジネーシヨンではない。イマジネーシヨンは無目的の夢であり発展性の無いものである。空想の芸術、夢の芸術は経験的現実的であり超現実ではない。超現実主義を以て夢に等しき無目的の意識状態であるといふ説は首肯出来ないものである。超現実主義は純粋性へ憧憬する意識的構成である。故に超現実主義は主智主義である。<br />
 対象として取扱ふ場合の現実的表象が作品の中に於て持つ位置―空間の制定―経験的価値形式の取り扱ひ方―純粋性の誤りなき把握のための厳密なる理智的計算である。<br />
 それは構成の技術の問題である。<br />
 この場合の対象は何処までも精神を通して計算されるものであつて現実的意味を持たなくなる。現実的形式ではなくして芸術的形式である。例へば描かれたる机は机自身の形ではない。具象的現実としての机ではなくなるのである。<br />
 <ruby ><rb >斯</rb ><rp >〔</rp ><rt >か</rt ><rp >〕</rp ></ruby >く対象としての現実的表象がその意味を持たなくなつた所から芸術は始まる。<br />
 作者の影も同様に薄くなる。こゝに作者が居ると思はせる作品はまだ純粋ではないのである。<br />
 純粋の境地―情熱もなく感情もない。一切が無表情に居る真空の世界、発展もなければ重量ない、全然運動のない永遠に静寂の世界!<br />
 超現実主義は斯くの如き方向に向つて行くものあると思ふ。 </div>
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